井上靖

未知のどんな風景に接しても、長年見たいと思い続けて来たものを見ることができても、そうしたことは自分の見聞に何かが加わっただけのことであって、もともとそれを見るか、見ないかだけの問題である。そうしたことより、やはり旅先においての慌ただしい人との出会いや、別れは、旅から帰ったばかりの私の心に、いちおう気持ちの上で整理しておかなければならぬこととして遺されているようである。厄介なことに、それは日が経つにつれて消えて行き、ついには跡形のないものになってしまうものである。ただ旅から帰った何日かの間だけ、それが持つ本来の意味を失わないで、爽やかに心の中に坐っていたり、ひっそりと置かれていたりする。旅におけるかりそめの、やがて記憶から消えてしまう人との別れが、暫く自分を一人にして置きたいのである。